祖先や神をまつる人が住み、米の豊作などを祈ったと考えられています。 この吉野ヶ里遺跡では、他の村との争いに備えていた跡が残っています。 濠がめぐらされ、その深さは3m以上もあり、簡単にはこえられません。 まわりは柵で囲み、見張りを立てて、侵入を防いでいました。
弥生時代 堀や柵 なぜ?
弥生時代の環濠集落 今から、2300~2200年前の弥生時代(やよいじだい)になると、収穫(しゅうかく)された米や来年の種もみを守るために、周囲に堀(ほり)を廻(めぐ)らせた集落が登場します。 こうした周囲に堀を廻らせた集落を環濠集落(かんごうしゅうらく)と呼んでいます。
吉野ヶ里遺跡 柵 なぜ?
吉野ヶ里遺跡はなぜこのような作りをしているのでしょうか? この場所には稲作に適した土地や水があり、敵に狙われやすかったたのです。 攻められにくいようにするため、柵や濠で集落を囲んでいるわけですね。 物見やぐら という見張り台も用意されていたことから、戦いに備えていた様子がわかります。
弥生時代 濠 なぜ?
「なぜ環濠集落がつくられたのか?」の答えは「人々の暮らしと財産を守るため」と考えます。 稲作によって米が実り、それを蓄えることで、米は「財産」になります。 その財産(米や収穫物)を守るためにつくられたのが「高床倉庫」です。
環濠集落は何を目的に作られたか?
稲の栽培は、人々に豊かな実りを約束し、生活の安定をもたらしました。 ところが一方では、収穫物や耕作地の水利を巡ってムラ同志が争うようになります。 争いからムラを守るため周囲に深い濠を巡らした「環濠集落(かんごうしゅうらく)」が造られるようになります。
