木製から鉄製へ、人力から牛や馬の力へ。時代と共に変化してきた稲作方法と伝統農具について貴重な資料と共にたどっていきます。
稲を作るには難しい知識が必要ですか?
稲を作るには難しい技術や知識が必要です。 なので、ただ稲が伝わってもすぐ日本で上手く作られたとは思えません。 おそらく稲とともにかなりの人が日本に来てその作り方を広めたと考えられます。 静岡県の登呂遺跡は弥生時代としては終わり頃のものですが、ここに水田の跡が残っています。 これは世界でも珍しいことです。 この水田にはあぜが作られていました。 長さ1メートル以上もある木の板や棒を二列に並べその間に泥を詰めてあぜにしたのです。 あぜの幅はおよそ50センチぐらいでした。 この板や棒は何万もあったといわれていて、その上綺麗に削られていました。 金属の道具を使って作ったのだろうとは思いますがそれでも大変な仕事であったと想像できます。 また、あぜの他に田に水をひく水路も作られていました。
稲作の伝来は何処で生まれたのですか?
稲作の伝来 稲は何処で生まれた 稲は、亜熱帯気候である中国南部の雲南省の一部からラオス、タイ、ビルマ周辺に広がる山岳地帯で生まれたとされ、そこから北の方に広がったのが「ジャポニカ」という寒さに強い種類の温帯での栽培にむく稲で、南に下ってインドや東南アジアに広がったのが「インディカ」という種類で、湿度と気温が高い所や雨季と乾季がある気候での栽培にむいています。 また、「インディカ」と同じく南に広がったのが「ジャバニカ」という種類の熱帯の高地で作られるようになった稲で、寒さに強く乾燥した土地でも育ちます。 やがて稲は、マダガスカルやアフリカの地中海沿岸、イタリアや、南米にまで広がりました。
稲作は日本各地で広まった文化でしたか?
稲作は日本各地に広まりましたが、一方で定着しなかった地域もあります。 北海道では 7 ~ 8 世紀ごろまで縄文時代のような生活をしており、食料採取の文化だったため 続縄文文化 と呼ばれています。 この続縄文文化では、漁の方法が改良され、骨角器を用いてクジラやアザラシ、魚をとったり、クマなどの大型の獣を狩猟していました。 また、北海道で出土されている恵山式土器は縄文土器を継承したものです。 沖縄など南西諸島では本土の縄文時代から鎌倉時代のあたり (12 世紀ごろ) まで漁労を中心とした 貝塚文化 でした。 独自の文化でしたが、交易はあり、南西諸島産のイモガイやゴホウラなどの貝が九州を中心に北海道でも見つかっています。
なぜ日本型の稲は伝わったのですか?
けれどもこの日本型の稲も日本が原産地ではなく、やはり外国から伝わってきたものです。 稲の原産地は細かいことはわかっていませんが大体中国南部から東南アジア、インドにかけての地域のどこかであろうと考えられています。 稲がどうのようにして伝わったか、その道筋については3つの説があります。
