1871年(明治4年)明治政府は中央集権を進めるために、それまでの大名領という藩の区分けを廃止。 この廃藩置県が行なわれた際、明治政府側に付いた藩と反対する藩を区別するために、賛成側は同一県名にし、反対側は異なる県名にした(例外は福島、山形、福井、和歌山)という説があります。
廃藩置県の都道府県は?
最初に東京・京都・大阪の3府の順、次に神奈川・兵庫・長崎・新潟の4県が定められた。 これは明治政府が開港地を重要視していたためである。 その後、県の数は明治5年(1872年)3府69県、明治6年(1873年)3府60県、明治8年(1875年)3府59県、明治9年(1876年)3府35県(第2次府県統合)と合併が進んだ。
都道府県名と県庁所在地名が違う なぜ?
県名と県庁所在地名が一致しない理由について、有名な説をご紹介しましょう。 それが「戊辰戦争報復措置説」。 戊辰戦争で佐幕派として明治政府に抵抗した藩、もしくは曖昧な態度を示した藩は、その罰として藩名をそのまま県名にすることが許されず、強制的に改名(格下の郡名)にさせられたというものです。
県の名前はどうやって決まった?
当時、蝦夷(えぞ)にと呼ばれていた北海道に開拓使として入植した官僚で探検家・松浦武四郎が、蝦夷は音読みにすると「カイ」と読めることと、五畿七道の東海道・南海道・西海道をヒントに「北加伊道」と命名する案を発表。 それを政府が五畿七道の表記に倣い「北海道」として採用したものです。
廃藩置県 何が変わった?
廃藩置県によって何が変わったのか 廃藩置県は「藩を廃止して、日本全国に新政府直轄領の県を置く」という政策なので、廃藩置県によって新政府は日本全土とそこに暮らす人々を直接統治することができるようになりました。
