明治新政府 は、1869(明治2)年7月に開拓使という役所を置き、8月に蝦夷地を北海道と改め、北海道 の開拓を本格的にはじめました。 その背景には、いまだ解決していなかったロシアとの国境 問題への危機感と、さまざまな産業をさかんにして日本を豊かにしたいという期待があり ました。
蝦夷地開拓だれ?
開拓使時代目次を見る 戦争終了後の1869年(明治2)7月、政府は官制改革を実施し、蝦夷地開拓の専掌機関として「諸省卿(しょしょうけい)同等」の長官をいただく開拓使を設置し、旧佐賀藩主の鍋島直正(なべしまなおまさ)が初代長官に就任した。 同8月には蝦夷地を北海道と改称し、11か国86郡を置いた。
なぜ北海道に開拓使を設置したのか?
当時は、北海道開拓という名で推進されていた。 その目的は、一つは、シベリア開発以降、樺太まで迫っていたロシアの南下政策に対する防衛であり、もう一つは、欧米列強に対抗するために、国内で急速に資本主義を育成するため、多くの天然資源が眠る北海道を開発し、国家の経済的国力を高めるためであった。
政府はどのように北海道を開拓していったのか?
明治に始まる開拓使の設置は、北海道を維新後の国力増強に活用し、士族に授産することを目的として、札幌の開発、道路・港湾・鉄道の整備、鉱山開発、官営工場の建設、札幌農学校の設置などを進め、集団移住者と屯田兵による開拓を推進します。 こうした中央主導型の開発とインフラ整備が、北海道農業の骨格を築き上げたといえるでしょう。
松前藩から何を取り上げた?
18世紀半ばには、ロシア人が千島を南下してアイヌと接触し、日本との通交を求めた。 松前藩はロシア人の存在を秘密にしたものの、ロシアの南下を知った幕府は、天明5年(1785年)から調査の人員をしばしば派遣し、寛政11年(1799年)に藩主松前章広から蝦夷地の大半を取り上げた。
