しかし、人々の米を北海道でも作りたいという願いは高まり、1873年(明治6年)に札幌群(さっぽろぐん)島松村の中山久蔵(なかやまきゅうぞう)さんがいろいろくふうを重ねて努力した結果、石狩(いしかり)地方で初めて水田作りに成功しました。
稲の原産地はどこでしたか?
稲の原産地は細かいことはわかっていませんが大体中国南部から東南アジア、インドにかけての地域のどこかであろうと考えられています。 稲がどうのようにして伝わったか、その道筋については3つの説があります。 まず1つめは東南アジア、中国南部方面から大陸を北へ進み、朝鮮半島を経て日本に伝わったという説。 2つめは、中国南部方面から台湾や沖縄などの島づたいに日本に来たという説。 3つめは、中国南部方面から海を渡って南朝鮮を通り日本へ来たという説があります。 どれもまだはっきりしたことはわかっていません。 ところで、稲を作るのか簡単なことだと思いますか? 稲を作るには難しい技術や知識が必要です。 なので、ただ稲が伝わってもすぐ日本で上手く作られたとは思えません。
稲作りの道具はどのように作られていましたか?
また、ネズミが入らないように「ねずみ返し」という板のようなものが床柱にハメられていました。 こうして倉庫に蔵められた稲は必要に応じて杵と臼を使って脱穀しました。 杵を振り上げて脱穀をしているところが銅たくに描かれたています。 この頃の稲作りの道具は大抵、木で作られていました。 登呂遺跡や奈良県の唐古遺跡などからは木のくわなどをはじめ田下駄や田舟などが発見されています。
稲を作るには難しい知識が必要ですか?
稲を作るには難しい技術や知識が必要です。 なので、ただ稲が伝わってもすぐ日本で上手く作られたとは思えません。 おそらく稲とともにかなりの人が日本に来てその作り方を広めたと考えられます。 静岡県の登呂遺跡は弥生時代としては終わり頃のものですが、ここに水田の跡が残っています。 これは世界でも珍しいことです。 この水田にはあぜが作られていました。 長さ1メートル以上もある木の板や棒を二列に並べその間に泥を詰めてあぜにしたのです。 あぜの幅はおよそ50センチぐらいでした。 この板や棒は何万もあったといわれていて、その上綺麗に削られていました。 金属の道具を使って作ったのだろうとは思いますがそれでも大変な仕事であったと想像できます。 また、あぜの他に田に水をひく水路も作られていました。
お米、稲作が日本に伝来したのはいつですか?
お米、稲作が日本に伝来したのはいつ頃? – 京都の米屋・独断と偏見のお米Q&A お米、稲作が日本に伝来したのはいつ頃? 1962年をピークに食べる量が減り続けているお米ですが、今のところ主食の座は明け渡してはいませんし、まだまだお米は日本人にとってなくてはならないものと考えていらっしゃる方は多いと思います。